地方貨類
秋田・銅山至寶
當百  面

文久2〜元治元年
(1862年〜1864年)
秋田藩
阿仁銅山付属の
加護山銭座で鋳造した。
銅に鉛を20〜25%を混ぜて
銭質は脆く崩れやすい。
鉱山内通用を目的とした
ため製作も粗雑であり銭文
もすっきりとしていない。

面の銭文は、
右側上下に「銅山」、
左側上下に「至寶」。
秋田・銅山至寶
當百  背

背の銭文は、
中段右左に「久二」、
文久二年鋳造を現わす。
中央上下に「當百」。
右上角に秋田藩の「秋」字
の陰刻印を打ち込む。

縦長   52.4mm
横長   35.7mm
厚さ    3.4mm
重量    59.0g
形体は円孔短形であり、
四隅が丸いので別名「角丸」
と呼称される。

形体は形体
穴銭堂版
東洋古銭図録(上)
評価 銅少
地方貨

秋田・銅山至宝
當五十  面

文久2〜元治元年
(1862年〜1864年)
秋田藩
阿仁銅山付属の
加護山銭座で鋳造した。
銅に鉛を20〜25%を混ぜて
銭質は脆く崩れやすい。
鉱山内通用を目的とした
ため製作も粗雑であり銭文
もすっきりとしていない。

面の銭文は、
右側上下に「銅山」、
左側上下に「至宝」。
「寶」字を「宝」に略している、
これは当百の「銅山至寶」と
区別するためと思われる。
秋田・銅山至宝
當五十 背

背の銭文は、
中段に「五十」、
文久二年鋳造を現わす。
中央上下に「久二」。
右上角に秋田藩の「秋」字
の陰刻印を打ち込む。

縦長   42.7mm
横長   31.1mm
厚さ    2.8mm
重量    31.0g
形体は円孔短形であり、
四隅が丸いので別名「角丸」
と呼称される。

形体は形
穴銭堂版
東洋古銭図録(上)
評価 銅稀
地方貨

秋田波銭
痩波(波間の狭いもの) 面

文久2〜(1862年〜)
加護山銭座で鋳造した。

百文通用で製作されたが、
価値は下落して、実際の流通
では八十文として使用。
本銭は、前の銅山至宝が
鉱山内通用なのに反し、
藩内通用銭であり、製作・
銭質ともにそれよりは
優れている。
地方貨

秋田波銭
痩波 背

「秋」字の陰刻印がある。

外径    43.8mm
厚さ     4.0mm
重量     42.6g


穴銭堂版
東洋古銭図録(上)
評価 銅稀
地方貨

秋田鍔銭 長尾 面

文久2〜(1862年〜)
加護山銭座で鋳造した
藩内通用銭、百文通用。
鳳凰図は、向かって左に
上向き鳳のオス(鶏冠3本)が、
右に下向きに凰のメス(鶏冠2本)
が配置されている。

鳳凰面と八卦面のどちらが
面でとちらが背であるか
は諸説があるが、ここでは
一応鳳凰図を面とした。

穴銭堂版
東洋古銭図録(上)
評価 銅一
地方貨

秋田鍔銭 長尾 背

銭の模様の原型は、藩主
佐竹義堯公の黄金作り
御陣太刀の鍔を模したと
伝承されている。

文王後天八卦
(坎→北の方位)

(離→南の方位)。
したがって坎・離の卦を
銭の上・下とすればよい。

縦外径  53.3mm
横外径  48.7mm
厚さ     3.3mm
重量     48.4g
地方貨

秋田鍔銭 中尾 面

文久2〜(1862年〜)
加護山銭座で鋳造した。
藩内通用銭、百文通用。
長・中・短3種類で
中尾が最も少ない。

穴銭堂版
東洋古銭図録(上)
評価 銅少
地方貨

秋田鍔銭 中尾 背

文王後天八卦
(坎→北の方位)
(離→南の方位)
したがって坎・離の卦を
銭の上・下とすればよい。

縦外径  53.6mm
横外径  48.1mm
厚さ     3.0mm
重量     45.8g
地方貨

秋田鍔銭 短尾 面

文久2〜(1862年〜)
加護山銭座で鋳造した。
藩内通用銭、百文通用。
一応鳳凰図を面としたが、
この短尾銭の場合は製作
から見ると面背は逆の
ようにも感じます。

穴銭堂版
東洋古銭図録(上)
評価 銅一
地方貨

秋田鍔銭 短尾 背


文王後天八卦
(坎→北の方位)
(離→南の方位)
したがって坎・離の卦を
銭の上・下とすればよい。


縦外径  52.2mm
横外径  48.8mm
厚さ     3.5mm
重量     50.5g
地方貨

秋田鍔銭 短尾 美制 面
文久2〜(1862年〜)

上記の短尾と同じであるが、
「美制」と呼称されているように
表面を滑らかにミガキ仕上げ
をしてある。

存在数は少ない。
地方貨

秋田鍔銭 短尾 美制 背


秋田鍔銭は長尾、中尾、
短尾いずれにも両側面に
草書体の「久」字
の刻印が打たれている。
元号文久の「久」で、
初鋳を表している。

縦外径  52.1mm
横外径  48.5mm
厚さ     3.5mm
重量     49.2g
秋田銀判 九匁二分 面

文久3年(1863年)11月に、
発行された三種類の一つで、
幕末期の地方貨幣である。
三種類は、九匁二分、四匁六分、
および一匁一分五厘である。

本判の表面には、
「九匁二分」と量目が刻まれ
丸枠に「改」の極印、
裏面には「秋」の極印
が打たれている。
また篆書体の「裕」極印が、
表面の周囲に六箇所、裏面周
囲には四箇所打たれている。

量目は表記通りで、九匁二分
は34.5グラムである。
久保田藩では、九匁二分で
もって一両として通用させる
ために発行された、従って
四匁六分は二分通用を想定
していたことになる。
秋田銀判 九匁二分 背

銀品位は『日本貨幣史』
によれば、97%であるとされ、
南鐐とよばれる上銀に近いも
のである。
これより先に久保田藩では
秋田封銀を発行し、一朱銀の
量目に準じて八匁を一両として
想定いたが、当時広く流通して
いた一分銀の量目に対する
不足から八匁=一両では通用
せず、一分銀の量目に比例さ
せて増量し九匁二分でもって
一両として通用させるために
発行されたものであった。
従って四匁六分は二分通用、
一匁一分五厘は二朱通用を
想定していたことになる。

ここまでの解説文は、大部分
が『Wikipedia』からの引用で
ある。

縦外径   80.4mm
横外径    56.5mm
厚さ      0.8mm
重量      34.4g
秋田銀判 四匁六分 面
丸枠に「改」の極印
みだれ星

文久3年(1863年)11月に、
発行された三種類の一つで、
幕末期の地方貨幣である。

本判の表面には、
「四匁六分」と量目が刻まれ、
丸枠に「改」の極印、裏面には
「秋」の極印が打刻されている。
また篆書体の「裕」極印が、
表面と裏面の周囲に四箇所
ずつ打たれている。

量目は表記通りで、四匁六分
は17.2グラムである。
秋田銀判 四匁六分 背

銀品位は『日本貨幣史』
によれば、95%であると
され、南鐐とよばれる上銀
に近いものである。

ここまでの解説文は、
『Wikipedia』からの引用
である。


縦外径   67.0mm
横外径    39.0mm
厚さ      0.7mm
重量      17.2g

(重量は、量目の表記と
まったく同じだった。)
秋田銀判 四匁六分 面
丸枠無しの「改」極印

本判の表面には、
「四匁六分」と量目が刻まれ、

丸枠無しの「改」極印が打刻
されている。

裏面には
「秋」の極印が打たれている。

また篆書体の「裕」極印が、
表面と裏面の周囲に四箇所
ずつ打たれている。

量目は表記通りで、四匁六分
は17.2グラムである。
秋田銀判 四匁六分 背


縦外径   66.8mm
横外径    37.1mm
厚さ      0.9mm
重量      17.2g

(重量は、量目の表記と
まったく同じだった。)
盛岡八匁銀判 面

慶応4年(1868年)3月より
慶応4年9月まで半年間、
日産高
150枚以内で発行された。

東洋貨幣協会誌「貨幣」第九号、
大正八年九月掲載によれば、
『慶応四年二月十六日。朝廷より
盛岡藩が仙台藩の援軍として
会津藩を追討の大命を受け、
家老楢山佐渡が上洛の途中より
呼び戻され直ちに軍備に
とりかかった。
軍用金として小坂産銀を盛岡に
運んで、山内通用の名目で御用
達平野治兵衛、小野善十郎等が
藩命によって八匁銀判を製作
した。
出征武士に八枚(八両)づつ路銀
として藩庁から交付されてという。
極印丸に融は融通、丸に改は
検量、丸に山は山内通用の意
である。
原形、及び極印の彫刻者は
月舘八百八と推定する。』


本判の量目は表記通りの
30.0gであった。銀品位は
塚本豊次郎の『日本貨幣史』
によれば99.5%とされ、
『花降銀』とよばれる当時として
は最高品位のものである。
盛岡八匁銀判 背

本判の表面には、ほぼ中央に
「八匁」と量目が刻まれ丸枠に
「改」の極印、表裏面とも
周囲に丸枠の「融」の極印
が6箇所打たれている。
裏面の右下には丸枠に「山」
の極印が打たれている。
秋田銀判に見られる槌目は
見られず平濶である。
本判は一両通用とされ、量目は
八匁で一朱銀16枚分に等しい
が、一分銀4枚分及び秋田銀判
の九匁二分より少なく、一両で
通用したか否かは不明である。


縦外径   85.2mm
横外径    54.3mm
厚さ      0.9mm
重量(重量)  30.0g
(重量は、量目の表記と
まったく同じだった。)



裏面の右下には丸枠に「山」
の極印が打たれているが、
この山字の中央縦画に
シクレットマークの横向きの
『微細横棒』がある。
その拡大画像
を添付しました。
米沢生産局
價二百 丸型 鉛銭 面

領内通用として、
慶応2年(1866年)に米沢藩
が鋳造した鉛銭のものには
この楕円型のものと数年遅れて
鋳造された角丸のもの
二種類のがある。面文は右側に
「生産局」上下に價二百とある。
背文は右側に「三十四匁」
左側には「米藩通用換札」
の字は多分母銭の段階で
削字されたようである。
本銭では銭文は読み取れないが
削字されないで「米藩通用換札」
と読める品物も見たことがある。

米沢藩に於いて当事発行された
藩札の中に「二百文」というのが
あるが、これはこの鉛銭と藩札
との相互関係が類推できる。

米沢生産局
價二百 丸型 鉛銭 背


領内通用として鋳造され
たもので、
本銭に関する詳しい文献資料
はまだ見つからないようだ。

縦外径   55.2mm
横外径    47.6mm
厚さ      5.5mm
重量       124g
米沢生産局
價二百 角丸型 鉛銭 面

領内通用として、
慶応2年(1866年)に米沢藩
が鋳造したこの角丸型のものは、
上記の丸型には存在していた
右側の「生産局」の文字が
抹殺されているので、
丸型のものより数年遅れて
鋳造されたと思われる。

面文は「生産局」上下に
價二百、
背文は右側に「三十四匁」
とある。

本品は百字は消えて見えない。
はっきり見えるものより遅れて
鋳造されたと思われる。
米沢生産局
價二百 角丸型 鉛銭 背


領内通用として鋳造され
たもので、
本銭に関する詳しい文献資料
はまだ見つからないようだ。

縦外径   47.0mm
横外径    47.3mm
厚さ      6.5mm
重量       121g
細倉當百
小郭 昂秀 面

文久2年(1862年)仙台藩所有
の細倉鉱山 山内通用として鋳造
された大型鉛銭である。
撫角の正方形で一辺が
約二寸(60mm)、
量目(質量)四五〜四八匁程度
(168〜180g)で中心には正方形の穴が開いている百文通用。

表面には「細倉當百」の銭文、
裏面には「秀」の文字、これは
藤原秀衡の花押を模したとされて
いる。これは産金で財を成した
平泉の藤原秀衡の古事に
あやかりたいという鉱山関係者の
願いが込められたものとされる。

おもに鉱山内職人の給与支払
いに当てられたという。
( ここまでの解説文は、大部分
が『Wikipedia』からの引用で
ある。)
細倉當百
小郭 昂秀 背

縦外径   59.0mm
横外径    59.2mm
厚さ      6.7mm
重量       187g


細倉當百を詳しく研究している
青森県の板井哲也氏の
説明によると、
「細倉當百の種類は5種類
が認められており、
正様が2種類、
小郭が3種類で、
小郭はこの昂秀と降秀などに
分類される、
殆どが正様で、小郭は
存在が少ない稀品。」
とのことです。
仙台通宝(大様)(鉄銭) 面

天明4年(1784年)

外径 23.3mm
重さ    2.8g

東洋古銭図録 八
仙台通宝(大様)(鉄銭) 背

天明4年(1784年)

外径  23.3mm
重さ    2.8g

東洋古銭図録 八
仙台通宝(中様)(鉄銭) 面

天明4年(1784年)

外径   22.0mm
重さ     3.3g

東洋古銭図録 八
仙台通宝(中様)(鉄銭) 背

天明4年(1784年)

外径   22.0mm
重さ     3.3g

東洋古銭図録 八
仙台通宝(小様)母 銭 面

天明4年(1784年)

外径   21.7mm
至輪径 19.0mm
重さ    2.9g

東洋古銭図録 七
仙台通宝(小様)母 銭 背

天明4年(1784年)

外径   21.7mm
至輪径 19.0mm
重さ    2.9g

東洋古銭図録 七
仙台通宝(小様)(鉄銭)通用銭 面
天明4年(1784年)

外径   21.7mm
至輪径 18.6mm
重さ    2.7g

東洋古銭図録 九
仙台通宝(小様)(鉄銭)通用銭 背
天明4年(1784年)

外径   21.7mm
至輪径 18.6mm
重さ    2.7g

東洋古銭図録 九
函館通宝(大様)(鉄銭) 面
安政3年(1856年)

外径  22.9mm
重さ    2.7g

東洋古銭図録 八
函館通宝(大様)(鉄銭) 背
安政3年(1856年)

外径    22.9mm
重さ     2.7g

東洋古銭図録 八
函館通宝(小様)
鋳放し 母 銭  面

安政3年(1856年)

外径   22.2mm
至輪径  20.2mm
厚さ    1.4mm
重量     3.6g
函館通宝(小様)
鋳放し 母 銭  背

安政3年(1856年)

外径   22.2mm
至輪径  20.2mm
厚さ    1.4mm
重量     3.6g
函館通宝(小様)(鉄銭)
通用銭 面

安政3年(1856年)

外径    21.6mm
至輪径  18.0mm
厚さ     1.2mm
重量      2.0g
函館通宝(小様)(鉄銭)
通用銭 背

安政3年(1856年)

外径    21.6mm
至輪径  18.0mm
厚さ     1.2mm
重量      2.0g
水戸虎銭 正様 銅製 面
(面文は虎絵)

元治元年(1864年)

細谷村の神勢館で、
銭座がその吹き始めの時に、
昔からの慣例によって
蒔銭用に作った祝賀銭の
蒔銭(まきぜに)で
あるといわれている。
当時銭座では、職人への
賃金支払いにこの蒔銭を
五十文銭として用いており、
それがいつしか出入り職人
を通じて、町中の間に
銭切手五十文の代わりとして
広がっていったようである。
祝銭としたのは、幕府の非難
を恐れたためであるらしい。

収集2003年4月号の記事、
青二斎 瀧田正雄氏
「水戸虎銭・大黒銭について」
から引用させていただく。
水戸虎銭 正様 銅製 背
(背文は篆書の富国強兵)

外径   32.2mm
面の至輪径 26.1mm
(虎絵)        
厚さ    2.1mm
重量    11.2g

本銭の面・背については、
いろいろの説があるが、
本銭は、銭厚大で谷が深く
「兵」字の位置が、郭の
上部と平衡である種類な
ので虎絵が面の説を支持
したい。
東洋貨幣協会「貨幣」
第50号(大正12年5月号)
「水戸の虎銭」から引用。

穴銭堂版
東洋古銭図録(上)
評価 銅少
水戸虎銭 降兵 銅製 面
(面は富国強兵)

慶応三年(1867年)

「兵」と「強」の位置が、郭より
下にあることから「降兵」と
呼ばれている。

本銭は富国強兵が表面である。
水戸町中に流通するにいたって、
慶応三年(1867年)からは
五十文通用として
広く行きわたったと言われている。
水戸虎銭 降兵 銅製 背
(背は虎絵)
慶応三年(1867年)


外径   32.7mm
面の至輪径 26.4mm
(富国強兵)      
厚さ    1.8mm
重量     9.2g


穴銭堂版
東洋古銭図録(上)
評価 銅少

絵銭
南部虎銭 降兵 鉄製 面
(面文は富国強兵)

昭和泉譜 平尾聚泉編

鐡鑄繪泉譜
の凡例の一文に「奥羽地方
ハ私炉多ク、皆時行ノ銭ヲ
伝鋳シタレバ、世間在ルトコロ
ノ絵銭モ亦皆採リテ鉄鋳サレ
ルモノ多シ(寺山が、旧漢字は
現行漢字に訂正しました)。」
とある。

上記に掲載の
水戸虎銭 降兵 を摸鋳したと
想定される。
絵銭
南部虎銭 降兵 鉄製 背
(背は虎絵)

外径   32.9mm
面の至輪径 25.1mm
(富国強兵)     
  厚さ       1.5mm
 重量      7.2g



昭和泉譜 第一巻 日本銭
鐡鑄繪泉譜

和鑄摸
水戸大黒銭 銅製 面
(面文は大黒像)

慶応3年(1867年)

上記水戸虎銭と共に細谷村
の神勢館で吹き始めた。
二十四文銭に替わって通用
したやや小柄な銭である。

頭巾をかぶり左肩に大きな
袋を負い、右手に打出の小槌
を持ち米俵を踏まえたその姿
は、七福神の一つとされ縁起
のよいものである。

収集2003年4月号の記事、
青二斎 瀧田正雄氏
「水戸虎銭・大黒銭について」
から引用させていただく。
水戸大黒銭銭 背
(背文は壽比南山)

外径   29.7mm
至輪径 24.5mm
厚さ    1.4mm
重量     6.2g

銭文の壽(寿)比南山は、
壽は長命、南山は長命で
知られる南山翁を指し、
その長命は、南山翁と比べ
られるほどのものである
との意味。

水戸虎銭よりも現存数は
少なくて位付けも高い。

穴銭堂版
東洋古銭図録(上)
評価 銅稀
絵銭
南部大黒銭 鉄製 面
(面文は大黒像)

昭和泉譜 平尾聚泉編

鐡鑄繪泉譜
の凡例の一文に「奥羽地方
ハ私炉多ク、皆時行ノ銭ヲ
伝鋳シタレバ、世間在ルトコロ
ノ絵銭モ亦皆採リテ鉄鋳サレ
ルモノ多シ(寺山が、旧漢字は
現行漢字に訂正しました)。」
とある。

上記に掲載の
水戸大黒銭を摸鋳したと
想定される。
絵銭
南部大黒銭 鉄製 背
(背文は壽比南山)


外径   29.7mm
至輪径 23.6mm
厚さ    1.6mm
重量     6.6g


昭和泉譜 第一巻 日本銭
鐡鑄繪泉譜

和鑄摸
絵銭
会津虎銭 白銅質 面

明治45年(1912年)

会津若松市の住人
富田治作。
会津の白虎隊の記念
として造られた。
面文「忠勇義烈」は藩公
の畫幅中より集成。
背文「會」は
馬島杏雨翁の筆と伝う。
純白銀の如き白銅と、
黄銅、赭褐銅の
数種あり。
会津虎銭 白銅質 背

外径   32.3mm
至輪径 25.5mm
厚さ    1.6mm
重量     7.8g
会津虎銭 赭褐銅質 面 会津虎銭 赭褐銅質 背

外径   31.2mm
至輪径 25.1mm
厚さ    1.7mm
重量     9.0g